綴の歴史(日本)

我が国への伝来は飛鳥時代。隋や唐の製品の舶載とともに伝えられたと考えられます。

国宝 綴織当麻根本曼荼羅図

綴の歴史
法隆寺や奈良時代の正倉院宝物には綴織の断片と織成の袈裟があり、当麻等には、縦横4メートルにも及ぶ綴織の「当麻根本曼陀羅」が現存します。平安時代初期には、空海が「健陀穀糸袈裟」を請来して教王護国寺に伝えました。我が国にも、平易な技法は平安時代にあったはずですが、これらを最後に古代日本の綴織は見られなくなります。再び綴織が出現するのは室町中期。日明貿易によって中国の綴織が渡来し、桃山時代にボルトガルやベルシャから西方の綴織が入ります。江戸時代には、ゴブラン織などの西欧の綴織。さらに明や清国から多量の舶載がありました。それらは今も、京都近辺の祭で山鉾の懸装幕として多く見ることができます。

京都 祇園祭菊水鉾

現在につながる綴織が行われるのは、江戸時代の安永年間(1772〜1782)頃。その発祥は西陣でした。京都の御室でも生産され、綴織は京都の独壇場でした。とくに祭の幕類に綴綿の大作が織られ、製作技術も本場中国を凌ぐほどでした。江戸末期の細工物全盛の時期には紙入や財布、小物入に重宝され、黄金時代を迎えます。

西陣旧家の井関政因が記した「西陣天狗筆記 下卷」』(1845)に、「綴綿 北船岡町井筒瀬平工也(弘化2年の)50年前出来ル」とあり、西陣で綴織を始めたのは林瀬平という人物とされ、寬政年間(1789〜1801)頃だとあります。

また安永4年(1775)の「画譚鶏助」に「綺繍、刺繍、古絲(刻絲)は説苑諸事にも出ず此方近日掛物画に織出して妙なり上古は中将姫の曼陀羅綺繍の工みなり」ともあり、実際はそれより少し古くから織り出されたと考えられます。

近代では、綴織は一般に流通し帯をはじめ、袱紗など広く用いられます。また、逸早く海外見間をした川島基兵衛の草案で大作の壁面装飾織物や緞帳として製作され、万国博覧会などの出品を通じ、西陣の綴織が一躍海外に知られました。そして世界各国でも、近代日本の綴織の秀作を見ることができます。(西陣織工業組合 西陣グラフより)

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